トップページ > 焼津鰹節について



"鰹節"は食品の加工法としては西洋の"チーズ"と並び称せられている日本が生んだ独特の世界に誇る優ぐれた製造技術によって生まれたのであります。

鰹節の起源
 それでは、吾々の祖先がいつ頃から生みだしたものでしょうか…?その起源ははっきりしていませんが、日本最初の文献「古事記」によると今から1500年程前の古墳時代雄略天皇の代に「堅魚」と言う名前が用いられています。当時の考証、歴史的背景から学問的研究の結果、"堅魚"は生鰹を加工したものであると言うことが現在学者間の定説となっております。しかし当時のものは現在市販されている"節"と言う程のものではなく、干して固めた素干品か、あるいは煮干品と言う程度のもので、大昔には鰹は生では喰べなかったと推測されます。生鰹を刺身として食膳を賑わしたのは鎌倉時代以降であると文献によって知られています。

焼津と"カツオ"
 当組合から北西約500メートル程の処にある、焼津神社周辺の「宮の腰遺跡」は、その居住跡と発堀出土品から見て相当広大な遺跡とみなされています。発堀された遺物には、須恵器・土師器の土器一類や、祭祀に用いられたと思われる剣・鏡・曲玉の土製模造品があり、この附近一帯は当時相当数の集落があって、ここで大規模な祭事を行なっていたものと思われます。この外に建物用と思われる柱や砥石の類のものが出土したが、特にわれわれの興味を引くものは、米などの食糧品に混ざって魚の骨片が発堀された事であります。そしてその骨片は考古学者の鑑定によつて「カツオ」の骨であることがわかりました。われわれは今から1400年余以前の弥生時代に焼津一帯の集落の人々が米食をし、鰹を獲って食べていたことが証明されますと同時に、当焼津は、大昔から「カツオ」と切っても切れない縁の深い街であることがうかがえます。

かつお堅魚で納税
 奈良時代(1200年余前)の法令によると租税は祖・庸・調と雑税に分かれ、庸は朝廷への労力奉仕の代替を布でもって納める税金で、租は田租を米で行ない、調はその土地の生産物にかかる租税で、農産物に限らず手工業生産物一般から河海の特産物も含まれていました。大宝律令(701)の海産物調賦の制によると、正丁(21才-60才)1人の税率は堅魚35斤(≒21Kg)・煮堅魚25斤(≒15Kg)・堅魚煎汁4升(≒7-2L)となっています。その当時の鰹は生食されず、干し固めて食したようで素干したものを堅魚、煮て日干したものを煮堅魚、煮汁をさらに煮つめて調味料としたものを堅魚煎汁といった。現在奈良の正倉院に保存されている古文書のなかに「駿河国正税帳」(駿河の国府から当時の中央政府にあてて提出した国の1年間の収支計算報告書)を見ると皇后宮用の雑物とこれを運ぶ運担夫12人のことが記録されており、この人々は駿河国より調物の品物を遠く都まで運ぶべく義務づけられていた。この調のなかには「煮堅魚」が'重要な物資とされ、駿河国が「煮堅魚」の特産地として登録されています。当時の駿河国は今の静岡県の一部で鰹の獲れた処は、焼津を中心に沼津までの沿岸漁村であったと思われます。延長5年(927)に醍醐天皇の命により撰集された「延喜式」(朝延内の儀式・行事・作法を始め、律令・諸制度を網羅した、平安時代初期の法律・社会を知る重要な文献である)に駿河国焼津浦より堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁の貢租があったとはっきり記されております。これらの史実、文献を通して見ても、焼津の"かつおぶし"の発祥は随分大昔から土地の産業として根を下ろしていた訳であります。

小野小町と"堅魚"
 絶世の美人として伝えられている小野小町の盛衰をうたった「玉造物語」の中に食事に大変贅沢であった小町は"鰹魚"の煮焦しが大好物であったと記されており、又当時の上流家庭では、米に堅魚、鮑、昆布などを混ぜて粥を炊いて食べたとあり、当時の食.生活を知る資料として面白い文献です。

江戸時代の鰹節
 鎌倉時代から徳川幕府に入る時代は、世に言う戦国時代でありましたので、保存兵糧として大変珍重がられ、又鰹節は"勝つ"、"勝男"、"武士"の縁起と結んだり、あるいはその折れ口が松の樹の年輪に似ているので、松の緑の気高さを讃えて"松魚節"とも称せられて、武上の元服式、結婚の祝事等に用いられ順次一般庶民の間にも広く用いられるようになり、なまぐさものを嫌う寺院においても"鰹節"を「牛の角」と称して公然と賞味されるようになりました。

"堅魚"から"鰹節"へ
 以上のような史実から見て、現在一般に使われている名称は戦国時代から江戸時代初期の間に変ったものと思われます。しかし当時の鰹節は昔と較べて相当加工技術が進んだとは言い未だ蒸乾程度のもので、現今の鰹節とは未だかなりのへだたりがあったようです。その後延宝2年(1704)紀州(和歌山県)漁師で甚太郎があみだした「燻乾法」が、現今「鰹節」という言葉の起源と一般に言い伝えられれておりますが、当焼津に於いては徳川三代将軍家光時代の、当地方の田中城主(藤枝市にあった)松平伊賀守忠晴が遺した古文書、寛永19年(1642)「萬覚」と「駿河田中城中覚書」(現在長野県上田市立博物館に所蔵)の中に、田中領分にあえものとして"かつおぶし"の名称が残されています、これらの史実から見ると焼津では、既にそれより50年余早く、"かつおぷし"の名称が用いられ、代々田中城主の御用になっていたことは誠に興味深いものがあります。その後製法に幾多の改良に改良を加えて、今日市販されている"かつおぶし"となり純粋調味食品として親しまれてまいりましたのであります。

宮中祭事と"かつおぶし"
 このように"かつおぶし"は、遠い吾々の祖先が生み、日本人の食生活と共に歩んで来たものであります。現在も、毎年11月23日に皇居で行われる新嘗祭には、神饌用のかつおぶしを焼津鰹節水産加工業協同組合から献上しております。