トップページ > 焼津と鰹節のお話




焼津は現在、全国でも有数の鰹節の生産地として知られています。焼津と鰹の歴史はたいへん古く、今から1400年余以前の弥生時代にまでさかのぼります。その当時、焼津一帯の集落の人々が米食をし、鰹を獲って食べていたことが証明されたのです。それは焼津神社周辺の「宮の腰遺跡」から発掘された遺物に端を発しています。この遺跡から土器類や剣・鏡・曲玉などの土製模造品、米などの食糧品に混って魚の骨片が出土。そして、その骨片は古考学者の鑑定によって"かつお"の骨であることが分かりました。このことからも焼津は、大昔から"かつお"と切っても切れない縁の深い町であることがうかがえます。

延長5年(927年)に醍醐天皇の命により撰集された「延喜式」(平安時代初期の法律・社会を知る重要な文献)に、駿河国焼津浦より堅魚(かたうお)煮堅魚(にかたうお)、堅魚煎汁(かたうおいろり)の貢租があったとはっきり記述されています。また奈良の正倉院に保存されている「駿河国正税帳」という古文書のなかにも、焼津を中心とした地域が煮堅魚の特産地として記録されています。堅魚や煮堅魚は、鰹を素干ししたり煮て日干ししたもので、今の"かつお"のルーツと考えられています。これらの文献を通してみても、焼津の"かつお節"の発祥はかなり古く、土地の産業として根を下ろしていたことがわかります。

現在一般に使われている名称は、戦国時代から江戸時代初期の間に変わったものと思われます。しかし、当時の鰹節は現在の鰹節とは相当なへだたりがあったようです。その後、延宝2年(1704年)に紀州(和歌山県)の漁師である甚太郎があみだした「燻乾法」が、現在の鰹節という言葉の起源と言い伝えられています。焼津においては徳川三代将軍家光時代の、当地方の田中城主(藤枝市にあった)松平伊賀守忠晴が遺した古文書、寛永19年(1642年)の「萬覚」と「駿河田中城中覚書の中に、田中領分にあるものとして、"かつお節"の名称が残されています。これらの史実からみると焼津では、すでにそれより50年余早く"かつお節"の名称が用いられていたのです。

天然調味料である"かつお節 は、私たちの遠い祖先が生み日本人の食生活と共に歩んできた世界に誇れる食品です。現在も、毎年11月23日に皇居で行われる新嘗祭には、神饌用のかつおぶしを焼津鰹節水産加工業協同組合から献上しております。