トップページ > 組合発祥〜今日まで



【組合の発祥とその背景】
焼津は今も昔も漁業に生き、水産物を中心として発展してきた町です。魚類の取引規約も時代により、いろいろ変遷経過をたどってきました。明治維新に入ってからは、それ以前の幕政時代の規約は効力を失い、漁業者と魚仲買人・魚商人(加工業者と鮮魚小売業者)との取引秩序が乱れ、規約も有名無実なものとなり、当地水産界の前途はまさに憂慮すべき状態に陥りました。この難局を打開すべく救済に動いたのが、当時魚商人の中心人物であった村松善八です。彼は明治17年(1884年)に、魚商総代を糾合『焼津魚商団体』を結成。組織をつくり、自主規制による厳格なる制裁法を設け、共同責任制を整えました。同業者の資格権利を律する規約、約定書を設定して新秩序を確立し、当焼津水産業の発達の基盤を築いた『焼津魚商団体』は、当組合の発祥であります。

【明治時代の開拓スピリット】
『焼津魚商団体』はその後、明治21年10月22日に静岡県知事(関口隆吉)の認可により、当時焼津の魚市場があった地名にちなみ『城之腰水産物製造販売組合』を設立。これによって業界の前進レールが敷かれ、体制が整いました。これが当組合の前身です。

【時運の進展とともに】
明治の中期から大正時代を経て、昭和の初期にかけての日本は、ヨーロッパ文明に追いつけ、追い抜けが国民の合い言葉でした。そうした時運の響きは当地水産業界にも及び、さまざまな前進をもたらしました。東海道線の鉄道開通は販路の拡大となり、電話の開通で取引情報をスムーズにし、発動機船からディーゼルエンジンの大型漁船化による近海から遠洋へと漁場の拡大、漁獲量の増大等々は、焼津水産業を飛躍的に成長させました。こうした発展の原動力を担ったのは、明治41年改称設立された『焼津水産会』であり、今日焼津における各単位協同組合は、いずれもその母体から生れ育ちました。我が焼津鰹節業界も、この時代にすでに県下のみならず、全国鰹節業界に揺るぎない地盤を築き、指導的地位と全国集散地として不動の体制を確立したのです。

【戦時下の組合】
『焼津水産会』は時代の要請によって、昭和4年にその母体から分かれて『焼津鰹節商組合』 を発足。産地における最初の鰹節専門「入札市場」を開設、また鰹節専門倉庫など組合独自の事業を行い、業界の指向に先鞭をつけてきました。しかし、時あたかも満州事変から日支事変、やがて大東亜戦争と風雲急を告げる戦時体制下に突入。鮮魚介をはじめ、鰹節など水産加工品はすべて統制経済下に入り、配給制が施行されるに及んで『焼津鰹節卸商業組合と名称を変更し、全国鰹節類統制組合中部支部の管轄下におかれました。また一部 業者は国策によって『皇道産業焼津践団』を結成し、新天地開拓の雄大なる理想をフィリピンなど南方地域で実践し、焼津鰹節業者の声価を上げました。だが、戦争はいよいよ苛烈となり漁船や加工施設はほとんど潰滅し、幾多の尊い犠牲者を南海に散らしたのです。それらの英霊を祀ってある「郷魂祠」は焼津神社境内に298柱を祭ってあります。そして終戦の幕が下ろされました。

【戦後の復興と組合】
大東亜戦争の敗戦によって水産業界は大打撃をこうむり、焼津の鰹節業界もその前途は暗澹たるものでした。しかしながら先人の志を継ぐ当時の指導者は、復興再建を目指していち早く行動を開始し、外地引揚げの残存者も合体して『焼津鰹節商工組合』を結成したのです。業者が一丸となって復興に努力した結果、生産も徐々に回復し、なおかつ統制も解除されました。そして戦後制定された水産業協同組合法により、昭和24年に認可を受け現在の『焼津鰹節水産加工業協同組合』を設立、今日に至っています。

以上のように、時代の進展とともに変遷を重ねてきた当組合。明治、大正、昭和、平成とその時代における幾多の障害、難局を乗り越えて来るたびに団結し、協同の力を結集して相互扶助の組合スピリットを培ってきた先人、先達の努力が、今日当組合のバックボーンとして息づいています。そして進取、開拓、団結の伝統が、脈々として流れ伝えられています。